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昭和42年01月28日 朝の御理解
有り難いというても、有り難いという色合いがそれぞれに違う。信心を頂いておるという事がこんなに有り難いと申しますけれども、その有り難いという度合いを、がせめてこの辺位までは有り難うならにゃいけん、というところまで一つおかげを頂かにゃいけんですね。信心を頂いておるというという事がこんなにも有り難いと。ということを、その有り難い程度がです、このくらいまで。
この辺まで位は一つ有り難うなっとかなければ、実をいうたらたいした、信心の有り難さというものが役に立たん。ただ有り難いというておるだけでは、この位のところまでは有り難いと。皆さんの、この有り難いというのは、どの辺のところまでであろうか。ただ自分だけが有り難いと思うておる。という程度からですね、私はその有り難いというのがですね、こういう有り難い気持ちにですね。
自分の関係のある、人の限りその、有り難さというものを、この頂いてもろうたら、味わうてもろうたら、本当に素晴らしい事であろうと。とこう、その有り難さというものを、人に伝えられるところまでの有り難さを、持ちたいもんだと思うです。まず自分がおかげ頂かなきゃ人には話しは出来ん。確かにそうなんです、だから自分がおかげ頂くところ、そこまではです、私は一つ有り難く、早ならにゃいかんと思う。
本当信心ちゃ有り難い事だと。色々とお話を出来、お話が出来ることは、お話を聞いて、まぁ覚えればいいのですけれども、そのお話だけではいかん。そのお話の中身に有り難いというものが、その止むに止まれんほどの有り難いものがです、私は頂けて始めて有り難いという信心の本当の値打ちというのが、あるのじゃなかろうかとこう思うです。どんなに例えても有り難い。ここもおかげ受けておる。
こりゃ本当にようも、こういう有り難い信心にご縁を頂いたものだと、というその思いが段々一つ強うなっておかげを蒙らにゃいけんですね。昨夜、昨夜って言うか、あの今朝方ですかね、もう1時ちょっと過ぎですか、子供が休んでおりましたら、たった今むつやから電話がかかってきて、昨日丁度、夜の御祈念に田代さんと小夜子さんと二人で参って来とりました。
野口さんのところの奥さんも参って来てございました。それに十時ちょっと過ぎには帰られたんですけど、もう一時過ぎたけれども、まだ帰って来ないという。そりゃやっぱりビックリしますよね。ついこの頃久保山先生のあんな事故があった直後でございますから。それで私直ぐ、ここへ降ろさせて頂いてから、お届け帳を、にお届けをさせて頂いてから御祈念をさせて頂いた。
そして私の心の中に、まぁ感ずるものでございますね。一番始めに私の心にひらめいて来るものは、昨夜頂いた御理解。どういう御理解であったかというと、丁度昨夜は久富繁雄さん、それから国男さんあの、勇さんの所の奥さんのクニカさんも参っておられましたが、丁度御祈念前に二人がお届けをされた事から、御理解を頂いたんです。昨日の朝、繁雄さんが頂いておられるお夢が、勇さんが盲になっておられる所を頂いて。
その部屋をこう、手探りで歩いておられる。ひととこ出るところがある。そこを奥さんのクニカさんがここから出なければいけんと。というてこう、誘導しておられる。勇さんはその探り探りしておられる。ところがその勇さんの後ろには何と親先生がちゃっと立ってござったとこう。そういうようなそのお知らせであった。信心する者は肉眼をおいて心眼を開けよとこう仰る。
やはり肉眼をおいて心眼を開く時は肉眼を置かなければならん。そこに肉眼がやはり、肉眼で見とる間はまだ本当の事じゃない。例えば難儀という言葉ばをもってするその難儀が、ただ難儀に見えて来る。肉眼を持ってすると。ところがその肉眼をおいて心眼を持ってみると、それは有り難い事ということになるんです。お礼を申し上げなければならない事になる。そこに、いわば次元の違った世界というかね。
いわゆる信心する者と信心のない者は、親と、親のある子とない子のとの違いというのは、私はそこのところの見方が出来るようにならなければ、本当の事がいえんのじゃなかろうか。信心しおりゃもう何かあるちゃ直ぐお願いに行かれる。もう信心しおりゃやっぱ何かの時には直ぐ金光様おすがりが出来る。ということだけがです、親のある子とない子という事も言えるですけども、それは本当の意味ではない。
それに親が本当に確信を持って自信を持って私共を救うてくれるかどうか分からない。ただすがるだけ、ただすがれれるというのであったら、ひょっとしたらその藁のようなものかもしれん。おぼれる者は藁をも、やはりつかんで。というけれどもです、ね、便りないものにただすがれるという事だけが有り難いというのではつまらん。もう間違いのないもの。絶対のものにすがれるということがです。
子供が親にすがるように、もう絶対なもの。それを頂かせてもらわなければいけんですね。為にはまず肉眼を置かなければいけん。いうならば、ここで肉眼を一つつぶしてしまわなければいけん。そこで探り探りである。そのところを、まぁ迷わんように行くのである。そこんところを大事にしていくのである。全ての事を実意を持って大切にと仰るが、いうならば目の前が真っ暗になるような場合。
そういうような場合でもです、私は、そのところを大事にしていく。例えばおかげを受けた、おかげを受けたというが、自分の都合の良い時には、やはり誰だって有り難いのである。いうならば、普通からいえばです、有り難くないような場合でもです、それは肉眼を持って見ておるから有り難くないのであって、心眼を持って開けば有り難いのだけれども、まだ心眼が開けていないから、それがその有り難いか何か分からん。
けれどもそこんと、有り難くないと思うその事をです、実意を持って全てを大切にと仰る、そこんところを私は大事にしていく、大切にして行くというようなことにならねばならんという風に思う。 そこんところを、大切にして行きよるうちにいうなら感も強うなるというか、心の眼を開けて来るというような、おかげが受けられて。そこんところを例え迷いに迷うて、もうその迷うてしまう人もある。
信心するのにどうしてこのような事がといったような事になって、信心を落としていく人もある。信心しておってこのようなこと。これはまだ信心が足りぬかと、分からん。分からんけれども、これは神様のご都合以外はないと確信させてもらう、そこんところを分からんなりにも一生懸命私は、そこんところを大事にして行きよるうちに私は心の眼が開けて来るようになるのだとこう思う。
いうなら、そういうような御理解を昨日は頂いておった。まぁついでながら、その後に奥さんのクニカさんがお届けされましたが、やっぱり同じような事を頂いておられた。私その事に基づいてです、いわゆる信心するものは肉眼をおいて心眼を開かせて頂くところの過程というものがです、神様のご都合であるということをです、本当に確信しなければならない。ただそれを、ただその場まぎらしの。
まぁ神様のご都合じゃろうと思いますと。まぁ大難を小難でおかげ頂いたじゃろうと思いますって。思いますと言うだけではいかん。本当に神様のご都合だと、それも神様がおかげを下さろうとするご都合の他にはないのだと、信じてそこんところをそこんところを大事にして行くうちに肉眼をおいて心眼を開かせてもらう。いわゆる、親のある子とない子ほどの違いがそこから頂けれれる。
信心のない者の世界から、信心の有る者の世界。いわゆる次元の世界。信心のない者ならばそれを困ったことだと見るけれども、信心のある者は、それを有り難い、お礼を申し上げる、お詫びを申し上げる以外にはないというような見方が出来る。そういう見方の出来れるおかげを頂かなければならん、といったような御理解を頂いておったんです。いうならば、まぁちょっと考えて見ると目の前が真っ暗になるような事が電話を持って知らせて来たわけなんです。
ほれでもう皆びっくりしまして、まぁその起き合わせてから、母が起きて来る、妹が起きて来る、それから愛子が起きてまいりました。もう真剣に、そりゃ白真剣でこに座りましたから、もう良いから早休みなさいて。まぁもう一回電話がかかって来る時は、電話を私はここで待つから、電話を切り替えて、あの私が待っとくから、皆休めというけども休まれるだんじゃないですもんね、やっぱりもう心配でたまらんのですよ。
(テープが消えてる)
まあ白真剣に真剣に心配しなさらわけですよね、10時に出てから、1時までも田主丸までの、まだ帰ってないというんですからね。それで私御祈念終わってから、したらあの妹、私があの電話をかけさせて頂こうとこっちから電話させて頂こうと思った、思うておる時に、妹が電話かけてみましょうかという風に電話をかけてもらって。
それから私はあの、むつやに電話かけたかと思うたら、永瀬さんのところに電話をかけた。ところがその一緒に乗せて頂いておった、あちらの奥さんも一緒に乗っていっとったんだそうですけど(途中切れ)